トキソプラズマ症
トキソプラズマ症の病原体は、トキソプラズマ・ゴンディーという寄生虫です。
トキソ(Toxo)は「弓」、プラズマ(plasma)は「生き物」を意味します。上の写真で見ると確かに、一つ一つが弓のような形をしていますね。ゴンディー(gondii)というのは、この病原体がグンディというヤマアラシの一種から発見されたことに由来します。
非常に小さいので、顕微鏡でないと見ることはできません。ノミやダニのように、「あそこにトキソプラズマがいるな。気をつけよう」と肉眼では確認できないのです。
あらゆる温血動物がこの病原体に感染します。犬も、猫も、牛も豚もヤギもネズミも。そしてもちろん人も。
しかし、はっきりした症状が表に出ることはあまりありません。
ですからこの病原体は、我々の気づかないうちに静かに広がっていきます。地域や年齢層にもよりますが、全人類の数十%がこの病原体の抗体を保有している(過去に感染したことがある)、というデータもあります。
「症状が軽いなら、放っておいてもいいのでは?」と感じる方もおられるかと思います。
実は、そうではありません。
成人が感染した場合、症状は軽度ですむ場合がほとんどです。
具体的には微熱、リンパ節の軽度の腫れなどを起こしますが数十日で症状は消えます。免疫力の低下している方や、重度の感染になると肺炎、脳炎、心筋炎などを起こし致死的になることもありますが、基本的には「トキソプラズマに感染したので命が危ない」といったたぐいのものではありません。
ただ、妊婦さんは感染に注意せねばなりません。
胎児は免疫力が低く、トキソプラズマが胎盤を介して胎児に感染する危険性があるためです。
ですから、「今までの人生で一度もトキソプラズマに感染したことがない方が、妊娠中に初めてトキソプラズマに感染した場合」には注意が必要だということになります。。
このとき、母親の体内では急いでトキソプラズマに対する抗体が作られ始めます。しかし、その間にもトキソプラズマは胎盤を通過し、胎児に感染を成立させてしまうことがあります。
これによって死産や流産がおこったり、無事お生まれになっても、水頭症などの先天性異常が残ることがあります。
妊娠中にトキソプラズマに初めて感染する確率はごく低いものですし、感染したからといって胎児が100%の確率で先天性トキソプラズマ症を発症するわけではありません。
しかし日本国内にも多くの患者さんがいらっしゃいますし、患者会も存在します。
この病気は我々のすぐ身近にあるにも関わらず、現在も解決されていない問題のひとつなのです。
患者会の皆さんの活動については「トーチの会」で検索してみてください。この病気についてもっともわかりやすく解説しているホームページは、この病気と闘っておられる方々や、そのご家族の手によるものです。国や専門の機関によるものではありません。これは非常に心の痛いことです。支援の輪が広がっていくことを願ってやみません。
さていま、「獣医師」である私がなぜ、人間の「母子感染」のお話をしているのでしょうか。
ここで、トキソプラズマの感染経路にまつわるお話をせねばなりません。
妊婦さんへの感染経路、これは大きく分けて2つあります。
1.生肉の生食
一つずつ見ていきましょう。まず、1.生肉の生食についてです。
トキソプラズマは、感染すると筋肉の中にひそみます。例えば、トキソプラズマに感染した牛の肉をトラが食べれば(当然、加熱せず生肉を食べるわけですから)、トラも感染する可能性があります。
またそのトラが死んで、ネズミがその肉をかじるということになると、そのネズミも感染するでしょう。またそのネズミを食べたヤマネコが感染して・・・・という感染経路が成立します。
「生肉にトキソプラズマが含まれているのではないか」という事はかなり以前から言われていました。具体的には、1954年の時点でウェインマンらが実験を行い、トキソプラズマに感染した動物の生肉には感染能力があることを示しています。
ただ、奇妙な報告もありました。1959年、インドのムンバイで疫学調査を行ったところ、「ベジタリアン(肉を食べない人)たち」と「肉も食べる人たち」のトキソプラズマ抗体保有率に、ほとんど差がなかったのです。
肉にほとんど接触しない人たちは、どこから感染したのでしょうか。それに、先ほどのお話でトキソプラズマに感染した牛を例に出しましたが、この牛はどうやって感染したのでしょうか。牛をはじめ草食動物もトキソプラズマに感染するのです。彼らは究極のベジタリアンです。肉を食べることはありません。
”弓”の名を冠せられたこの病原体が持っている感染経路は、「生肉の生食」という1本の矢だけなのでしょうか。
2.猫の糞に含まれるトキソプラズマの経口摂取
1970年、フレンケルらがついに、もう1本の矢がどこから飛んでくるのかを見出します。彼らが明らかにしたのは、トキソプラズマの終宿主(しゅうしゅくしゅ)はネコである、ということでした。詳しく見てみましょう。
終宿主、とは寄生虫にとって特別な宿主であることを意味します。そこでしか有性生殖ができません。つまり、トキソプラズマが世代を一つ進めるためには、どうしてもネコを通過しないといけないのです。ですからネズミの筋肉にひそむトキソプラズマは、このネズミがネコに食べられて初めて世代交代が可能になります。それ以外の動物に食べられると、ずっとその動物の体内にひそみ続け、体外に排出されるということが基本的にありません。
ひとたびネコの体内に入ったトキソプラズマは有性生殖をして、オーシストという卵を出します。この卵は、猫の糞とともに排出されます。トキソプラズマの卵を含んだ猫の糞が、何らかの原因で動物の口に入ることがあります。好んで口に入れなくても、糞によって土が汚染されていて、そこに生えていた草や野菜を口に入れて感染したり、あるいは水源が汚染されていれば生水を飲んで感染、ということも考えられます。
このように見てきますと、妊婦さんにとって重要な予防対策は
妊娠中は「生肉を食べない」「猫の糞(それに汚染されたと思われるもの)との接触をできるだけ避ける」ということになります。
予防についてもうすこし詳しく見てみましょう。
感染経路が大きく分けて2つあることはお話しました。
1.生肉の生食
については、比較的わかりやすいと思います。要するに、妊娠期間中に生肉を食べなければよいわけです。具体的には、馬刺しや牛刺し、ユッケなどを食べない、ということです。
ただ、67度まで加熱すればトキソプラズマは失活しますので、熱を通せばお肉を食べても構いません。このときよく内部まで火を通すことが重要になってきます。つまりローストビーフ状態にならないように、ということです。
また、-12度でトキソプラズマはほぼ失活しますが、家庭用の冷凍庫ではこの温度まで下げることはできないと思います。「肉は加熱して食べる」ことを心がけていただければと思います。
2.猫の糞に含まれるトキソプラズマの経口摂取
猫の糞に含まれるトキソプラズマの卵を、汚染された土からであれ水からであれ、何らかの形で口から取り込むと感染してしまう可能性があるのは先程説明したとおりです。
ただし、感染の条件はすこし複雑ですので、順をおって説明しましょう。
①すべての猫がトキソプラズマに感染しているわけではない
トキソプラズマに感染していない猫からは、当然ですがトキソプラズマの卵は排出されません。では実際にどれくらいの確率でトキソプラズマに感染しているのか・・・というと、はっきりしたことはまだわかっていません。地域的なデータはわずかにあるのですが、全国的な調査は行われていませんし、そもそも猫の一部は野生動物のような暮らしをしていますので、全国調査そのものがほぼ不可能であると言えます。
ただいくつかの文献から推測すると、日本の猫のだいたい20%にトキソプラズマ抗体があることがわかります。つまり、逆に言うと8割くらいの猫はトキソプラズマに感染していないようだ、ということになります。
これら感染していない猫の糞には、トキソプラズマは含まれません。
②感染した猫は常にトキソプラズマを出すわけではい
感染した猫の糞にはトキソプラズマの卵が含まれることは先に述べました。しかし、毎日毎日、死ぬまで排出するわけではありません。トキソプラズマに感染した猫が卵を排出するのは、感染がおこってから2週間程度だと言われています。つまり、仮にトキソプラズマに感染しても、長い猫の生涯のうちでたった2週間だけ、便の中にトキソプラズマが含まれるということになります。仮に猫の寿命を15年(約5500日)とすると、そのうち14日間排出するとして、便の中にトキソプラズマが含まれる確率は14/5500で約0.25%ということになります。
また、そもそも猫がトキソプラズマに感染している確率が約20%くらいですから、「今、目の前にある猫の糞の中に、トキソプラズマが含まれる確率」は0.25%×0.2=0.05%。つまり2000分の1ということになります。
完全に室内飼いの猫であれば、外部からの感染リスクがさらに低下しますから、この割合はもっと下がりるものと考えられます。
③糞便中に含まれるトキソプラズマの卵は、しばらく感染能力を持たない
もし、上で述べたような条件がそろって、便の中にトキソプラズマの卵が排出されたとしましょう。この便が何らかの形で口に入ると、経口感染する可能性があります。ただし、排出された直後の卵には、感染能力がありません。具体的には、約24時間たたないと感染能力を持たないのです。
ですから、猫の糞を24時間以内に始末すれば感染リスクを下げることができるわけです。
このように見てきますと、猫からトキソプラズマがうつる、というのは非常にまれな現象であることが伺えます。飼い主さんに正しい知識があれば、感染を防ぐことは難しいことではありません。
予防法について、見逃されがちな点について補足します。
1.生肉の生食の盲点
生肉つまり馬刺しや牛刺し、ユッケなどを食べないことが重要である点はお話しました。内部が生焼けの肉にも注意が必要です。ここまでは習慣づけしやすいのですが、問題は「生肉と接触した調理器具」です。
具体的には、「肉を切ったあとの包丁・まな板」や、「焼肉のとき生肉をつかんだトング」などです。これらは、このあとの使用法によっては、生肉を口に入れるのと同じ結果をもたらします。ですから「肉と野菜でまな板を代える」、「生肉をつかむトングと焼けた肉をつまむトングを分ける」などの配慮が必要です。
2.猫の糞の盲点
トキソプラズマの卵は、
①感染している猫からしか排出されない
②排出される期間は非常に短い
③排出された直後は感染能力がない
ことを重要点としてお話しました。猫を飼う事が決して脅威ではないことをご理解いただけたかと思いますが、注意しなければならないのは「トキソプラズマの卵そのものの寿命」です。
仮に、今ここに、排出されたばかりのトキソプラズマの卵を含む便があるとします。この便の責任者は、やがて正常な便を生涯にわたって排出しつづけるでしょう。しかし、このトキソプラズマの卵はその後どうなるのでしょうか。実は、便そのものが分解されても、卵自体は長期間、感染能力を持ったままなのです。
順を追ってお話しすると、この卵はまず、約24時間すると感染能力を持ち始めます。便自体は、外の環境であれば数日以内に風化し、散逸します。このとき卵は自然の力で様々な場所に運ばれます。土とともに巻き上げられ家庭の庭に。雨水で流されて側溝に。公園の砂場に埋もれたものならば、砂に混じって砂場の中に。
つまり猫がいなくても、そこにトキソプラズマの卵は存在する可能性があります。
環境にもよりますが、感染能力を有している期間は1年以上とされています。
ですから、猫を飼っていない妊婦の方でも衛生面に注意しなければならないわけです。とは言え、これはトキソプラズマうんぬん以前の問題ではあります。例えば土を触ったらよく手洗いをするとか、生野菜の土はよく洗って落とすとか、不衛生な水は飲まないとか、これはいずれの病気を防ぐ意味でも当然のことです。
このように考えると、猫からのトキソプラズマの感染を防ぐためには、ごく一般的な衛生対策をすればよいということになります。
トキソプラズマ症が他の感染症と異なるのは、「動物由来感染症」であるとともに「母子感染症」でもあるという点です。
つまり、動物から動物へという「横の糸」、そして親から子へという「縦の糸」。縦横に手を広げゆっくり魚群を包む網のように、気づかぬうちに我々に迫ってくる、静かではあるが恐ろしい病気です。
この病気が発見されたのは、実に100年以上昔です。1908年、チュニジアでのことでした。
その後、あらゆる動物に感染すること、人も例外ではないことがわかり、前述のように感染経路も明らかにされました。しかし残念ながら、未だ撲滅には至っていません。
しかし、はっきりと言えることがあります。
「知識があれば、予防できる」ということです。
トキソプラズマ症についてお話するときに、「母子感染」という言葉は本当はあまり使いたくありません。
お子さんの感染の責任を、お母さんの無知に帰するような響きがあるからです。しかしこの疾病を解説するにあたっての主旨は、正直なところ、主に妊婦さんへの注意喚起を行うということです。母子感染という用語はかなりの知名度を有し、ご存じない方にとっても漢字からその意味合いが把握しやすいことから今回使用しました。
ただ、私が思うのは、お母さんはこの感染症のことを「知っておくべきだった」のではなく「知らされるべきだった」という事です。
知識があれば、予防は難しくありません。しかし誰かが教えないと、わからないことです。
この病気は、未だ撲滅されていないにも関わらず、ほとんど存在しないような扱いを受けることがあります。毎年、この感染症と生涯にわたって戦い続けねばならないお子さんが生まれています。しかし抗体検査は妊婦健診における必須の検査項目ではなく、難病指定もされていません。
確かに、感染するのはまれな確率かもしれません。しかし、たとえ確率が何十万分の1であっても、生まれてくる子供は親にとっては1/1のはずです。
正直なところ、獣医師がこの感染症について声を大にするのは勇気のいることです。短絡的に「猫が原因か!」と解釈され、虐待や遺棄につながるのは悲しいことです。しかし、知っているものが誰かに伝えない限り、問題は解決しません。そしてそのときには誤解を与えないように、できるだけ正確に説明を重ねる必要があります。
私が多くの講演でこの感染症について触れるのは「知のワクチン」こそが救いになると信じているからです。
動物由来感染症の拡大を防ぐこともまた、獣医師にとって大切な仕事なのです。